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posted at on 2006.10.11 Wednesday
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Trackback
ここ数年、Coltrane をまともに聴いていない。
自分にとって Coltrane は、自らの意思でジャズを聴き始めたいちばん最初に出遭ったミュージシャンだった。多くのジャズ好きがやるように、私も彼のリーダー作はほぼすべて、周辺の参加アルバムも代表的なセッショ
| Night rain, in winter... | 2004/11/28 12:16 PM |
ご無沙汰しております。
トラックバック、有難うございます。
同じ本を読んでのリアクションですが、「ああ、ここは私もそう思ったなぁ」と思う部分もあれば、私が見逃してしまった(もしくは、気に留めなかった)箇所への指摘もあり、非常に興味深く拝見させていただきました。
そのことを踏まえ、改めて本を読み返してみようと思っています。
考え事に対する、私なりの回答は未だに出ていません。
自分の中ではそれぞれの音楽に魅力を感じており、どうにかそれを伝えたいと思うのですが、何しろ自分自身さえ納得できる言葉が見つかりません。
案外、一生見つからないものなのかな・・・などと思う今日この頃です。
とはいえ、断続的にでも一つのことを考えていると、ふとした拍子にそれにまつわる話題や記事が目に留まります。
例えば、今日読んだ「Jazzworld」に載っていたアケタ氏の記事には、若いジャズプレイヤーによくあるパターンで、すごく上手なんだけれど全然(アドリブ)が面白くない。というのは、アドリブの基がコピー(或いは、コピーの切り貼り)でしかないから。とありました。
昔と違い、最近の(特に日本の)ジャズプレイヤーは楽譜がよく読めるし、アドリブのトレーニングも最初は(過去のプレイヤーの)コピー譜を例に取って発展させていく方式を取っている人も少なくないようです。
そうすると、制約の少ないはずのアドリブが型にはまってガチガチになってしまうこともある。創造力の欠けた、悲しい即興演奏の一例です。
それとは逆に、高橋悠治氏がバッハのゴルトベルク変奏曲を演奏するに当たって、こんなことを言っていました。
「(ゴルトベルクを演奏するなら)違う風にやってみたい。<中略>今にも止まりそうだったり、つっかえそうだったり・・・そういう、”あれ?”と思えるような演奏だと、また違う面が見えてくるかもしれない」(という感じだったと思いますが、ちょっと違ったかも・・・)
これは、楽譜というきっちりとした型があっても、演奏家の創意次第では刺激的な音楽になり得るという一例です。
ただ、クラシックの聴衆には型から外れた演奏を好まない方が多いのも事実ですし、またこういった冒険をする演奏家が少ないことも事実です。
それを飛び越えれば、楽譜という型にはまった音楽もより自由になれるのかもしれません。
またしても長文コメントになってしまいました。すみません。
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Kompf | 2004/11/05 3:33 AM |
Kompf さん、大変興味深い本のご紹介に感謝しています。実はこの本は買う決断がつかず、公共図書館の蔵書にあったので借りてきて、貸出を延長し1カ月ほどかけて幾度か読みました。楽しく音楽を聴いていればいいものを(笑)……もちろんそれもしているのですが、こういうことを一度考え始めるとあれこれ頭を悩ませつつ、それでもまた楽しいですね。
私がそもそも拙稿(1)で言及した西洋古典音楽に対して感じる「歯がゆさ」、(2)で Kompf さんに的確に読んでいただいた「もどかしさ」は、(おこがましいですし、実際に演奏する人と聴いているだけの私とでは立場も観点も本当はまったく違うと思うのですが)上で引いた Steve Lacy の言っていることに似ていると思いました。あらかじめ準備したものの“向こう”に何かがある(はずだ)、ここまでは Lacy の所説と同じです。ここから先、Lacy が自作あるいは自らの演奏について述べているのに対して、私はそこからいわゆる“クラシック”に目を転じ、その演奏家たちはその“あちら側”を目指すことはしない(ことに決められている)ではないか、と。
しかし、それでは演奏をせず作曲家として音楽を創る人たちはどういう立場におかれるのか。私自身について言えば、(2)コメントでも書いたようにやはり決定的に鑑賞能力が欠けていて、本来なら偉そうにもどかしく感じているどころではないのだろうと思います。一方で、Bailey のこの本は(当然ながら)ほぼ100%演奏家としての見方を呈示していて、彼の批判も苛立ちも主に即興演奏の豊饒な可能性に目を瞑る(または無知なままでいる)演奏家たちに向けられているにせよ、彼の考えでは果して曲を作って楽譜に書く(だけの)人たちに立つ瀬はあるのだろうか。私にはそこがよくわかりませんでした。たぶん本書で唯一これに関連している箇所は上でも引用した Bryars のインプロヴィゼイションに対する批判だと思いますが、Bailey には作曲家について、Bryars には演奏家について、つまり各々の“敵方”(笑)に関してさらに突っ込んだ議論を聞いてみたい気がします。
数カ月前、新録音のほうのGlenn Gould『ゴルトベルク変奏曲』を買ってきて聴きました(古いほうは未聴)。何度聴いても飽きず、随所に「ほほぅ」と思ったり「にこにこ」してしまう感じを受けるところがあって、これがたぶん“普通に”弾いたものとは随分と違う演奏なのだろうということは、私にもわかりました。実におもしろい。Kompf さんに Part を教えていただいて以来、そこに本当に宝の山があることを恥ずかしながらようやく実感できつつあるので、今後スロー・ペースででもいろいろ聴くものを増やしていきたいと思っています。
| moondial | 2004/11/05 5:29 PM |